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佐伯祐三は、1924年1月3日にパリへ到着し、モンパルナスのシテ・ファルギエールの里見を訪ねた。ここはモジリアニも藤田も住んだことのあるモンマルトルの「洗濯船」のような画家のコロニーだった。里見は6人一緒に泊まれる宿をと、まずは「オテル・ソムラール」を訪ねたが、生憎空き部屋が無く、少し高めだが大きな、パンテオンの右隣のホテル、「オテル・デ・グランゾンム」に6人は泊まった。数日後「オテル・ソムラール」が空いたので、そちらに移った。現在このホテルは「オム・ラタン」と名を変えている。このホテル滞在中に佐伯が8号のカンヴァスに描いた「サクレ・クール」が残っている。ユトリロと同じ視点でサン・リュステイック通りの狭い路地の奥にサクレクール寺院が覗いている。もう一枚、ホテルの窓からノートルダム寺院の塔と尖塔と屋根を描いた「ノートルダム遠望」が残っている。

ホテルの部屋は狭く、6階にあったので、足の悪い米子が階段を上り下りするのが大変だったこと、まだ2歳の娘の弥智子が夜泣きをし隣室から苦情が出た。それに佐伯が好きな蓄音器をかけられない。里見と中山に、こぼすうち、最初黙っていた中山が、クラマールに家賃を三か月分前払いし、空室のままになっている一戸建ちの家があると漏らした。

広い庭の中にアトリエに使える広い部屋と3つの部屋がある。クラマールは、ロダンが晩年にアトリエを持ったパリ南端とセーヌを挟んで対岸の小高い丘に広がる高級住宅地ムードンに隣接した緑に溢れる地区。

中山が借りた一軒家は広い庭の中にあり、その敷地の所有者がマルキ・セヌピ・ド・ラヴェヌという貴族だったことを、こんど新潮社、朝日晃、野見山暁治共著「佐伯祐三のパリ」2009年5月第5刷)を読んで知った。

この本に、佐伯が住んだ家の門の写真が載っている。もうひとりの「ゆうぞう」と、この門扉を押して朽ち果てた佐伯のアトリエを発見したのが1975年の春のことだった。

佐伯一家はさっそくクラマールのこの家に移った。続いて里見の周辺に居た小島善太郎、川口軌外も同じ敷地内に移って来た。

金子光春の「ねむれ巴里」(中公文庫)には、クラマールのことが出てくる。
「その頃、クラマールに住みついていた画家は、松本弘二夫妻と版画の大家、永瀬義郎などの人たちで、…(中略)…。遊び好きな連中で、夜通し、踊って、のんで、みんなで肩を組み、ほのぼのとした朝げしきの森へ飛び出していった。和製のサチールとニンフたちが、灌木の茂みの中にもぐり込んだが……」(P77)
「とりわけクラマールには、日本の郷里からの仕送りがあって、よくよく切りつめてではあるが、じぶん一人ぐらしには事欠かず、その代わり、他人の侵害を極端に要慎(用心)しながら画の勉強をしている者が多かった。」(P81)

金子光春がシンガポール、マラッカ、セイロンと南京虫に食われながら寄り道し、アルチュール・ランボーが詩に愛想をつかしてアビシニア人相手に辛い商売をしに行ったアデン(亜丁)に降りたりしながらマルセイユ経由でパリに着いたのは昭和3年のことだから、佐伯一家がクラマールへ移ってから5年後のこととなる。佐伯はもう、この世の人ではなかった。

佐伯祐三一家の住んだクラマールの家を、もう一人の「ゆうぞう」と見つけ、中を覗くと、草ぼうぼうの野原に囲まれ一軒家が見えた。明らかに人の住んでいない廃屋なので、二人で少しだけ開いた門扉をさらに押し開け中に入った。

平屋だったという記憶があるのだが、新潮社の「佐伯祐三のパリ」に載った白黒の写真を見ると、半地下室の上に乗っているように見える。いずれにしてもバルコニーが貼り出し、軒には木の飾りが下がっていた。

建屋だけは残っていたが、窓やドアのガラスはすべて破れ、砕け散ったガラスの破片が床を覆っていた。50年前、ここに佐伯祐三が米子、娘の弥智子と暮らしたのだと思うと深い感慨が襲った。

親子三人が、木の柱が露出した(コロンバージュ)壁を背景に撮った写真がグーグル画像に見つかった。この壁に見覚えがあり、クラマールの家の前で撮った写真だと思う。

米子は入り口に近い部屋に貸ピアノを置き、中の部屋を寝室、左の部屋を炊事場として使い、窓際に食卓を置いた。竈は赤煉瓦、電気は無く夜はランプで暮らしたそうだ。

この時期の作品に、「人形」が残っている。オペラ座近くの骨董屋で一か月分の生活費をはたいて買った男女一組の縫いぐるみ人形で、絵のモデルになった女性の人形は有島生馬の所へ行った後焼失した。男の人形だけ残っている。

佐伯一家にとっては、創作活動を本格的に開始する前の、短かったがクラマールに滞在した時期が、いちばん幸福だったのではないかと思う。

里見勝蔵が1930年叢書(昭和4年刊)に発表した「回想の二三」によると、佐伯一家はパリ郊外で決して寂しい暮らしをしてはいなかった。若いアーチストたちが押し掛け、解放感みなぎる時間を共にした。

「この郊外に住む友人達(佐伯の家と同じ敷地内に小島、川口が住んでいた)を訪ふ為私達――巴里の豚児……前田、中野、中山、木下勝四郎、音楽家では林龍作、川瀬モト子、岩崎太郎、平岡次郎……等は日曜を待ち兼ねて、土曜から出かけて行った。そして私なんかは、月曜か火曜にならねば巴里へ帰らなかった一人だ。それ程、このクラマールの部落は仕事にも遊びにも適当であり、愉快であったのだ。」

ピアノ、ヴァイオリンを弾き、蓄音器に耳を傾け、ダンスを、そして闘牛遊びをした。
「佐伯が布を被って牛になるとその敏捷さと乱暴さで、如何に勇敢な闘牛士も必ず倒された。小島の落語。前田のメクラガチョーチン……は全く私達を有頂天にさせた。天狗俳句が乱暴な投書俳句となり、俳句の形式はいつの間にか全然破壊されて、完全に仲間の秘密暴露や、全く出鱈目な作り事が如何にも真実かの如く発表された。而して又興味深々なる無礼講――結婚遊び――なるものさへ発明された。私はとても善友や悪友の多くを持っているが、この仲間ほど遊び好きを知らない。朝から夜にかけて、二日も三日も……もし私達に仕事と云ふ用事が無ければ、なほ幾日遊び続けるか解らない。」と里見は書いている。

佐伯は凝り性で、写真を自分で現像、焼き付けまでやったらしい。朝から家の窓という窓をキャンバスや毛布、風呂敷で塞ぎ、終わって覆いを取ると外は薄暗くなっていた。

佐伯がパレットや筆を掃除する時は、徹底していて、楽しみながら、一日も二日も掛け絵具箱を磨いたという。しかし、仕事を始めたら、筆を洗うことは決してなく、パレットには絵の具が層をなし、重くて親指一本では五分と持ち続けられないほど。棒のように毛の固まったカチカチの筆で、巧みに絵の具を混合して、ヴラマンクから後に「色彩家」と称賛を得た。

「遊び仲間のいない日、佐伯は入り口の階段にボンヤリ、いつまでも座ってジッとしていた。また太陽の照る草原に寝そべって、眼を開いて青空を見つめていた。日が暮れて、人にうながされると、黙然と立ち上がり、土、草を払うことなく、夏でも両手を袋(ポケットのことか?)につっこんで、ノソリノソリと人について帰るばかりだった。」

佐伯の性格、資質について、河北倫明は「生まれつきの感受性の優しさと、別面のひたむきな精神の強さとが、たがいに両面から寄りあって純な画家的資性に結晶していた」と要約している。

父に似て、あわれみ深い、度を超すほどのやさしい心の持ち主だった。蠅でも蚊でも昆虫でも、すべて生きているものはどんな小さなものでも絶対に殺したりしないのが彼の生きかたであった。

「ズボ」という綽名があったように、言語や、立居ふるまいに、一種のだるさ、ものぐさな調子が印象的であったが、半面では野球好きで、音楽に耽ったりし、また当然のことながら感覚的に鋭いものを持っていた。残された手記の中に、
「クタバルナ、今に見ろ。水ゴリをしてもやりぬく、きっと俺はやりぬく。やりぬかねばをくものか。死―病―仕事―愛―生活」といった壮絶なものがあるように、人一倍優しい心、鋭い感覚の背後には、何が何でもやりぬくような精神の一徹、あるいは宗教的信念とも言えそうな心の持ち方が厳然としてひそんでいた。これらが寄りあって、佐伯祐三という作家の、芸術家としての美しい「純粋」の素地を用意していたと言わなければならない。」と書いている。
(1978年6月東京国立近代美術館、没後50年記念「佐伯祐三展」カタログ掲載、河北倫明「佐伯祐三の人と芸術」による)

「ズボ」と綽名で呼ばれた佐伯祐三は、ずぼらで、書く文章も、ひらがなとカタカナ交じり、時に漢字を逆さまに書いたりした。

「ケンキュー所は先日一週間行ってそれきり通ひません。風景や静物を描いてゐます。私の画はすっかりかはってもうあんなルナール(ルノアールのこと)なんかかいてゐません。昔の画にかへりました。今いろんなことをかんがえてゐます。あんまりかへがへる(考える)といやになる事もありますね。僕は実にのんきな事を言ってるがこれでも、一寸シンケンな所もあるのです。」

これは、1924年1月3日にパリに着いて、3か月後の4月半ばに親友の山田新一に送った手紙の一節です。

「セザンヌの画は随分沢山見ました。ルーブルで三枚、画商で四、五枚、ベルネームジュンの本宅で二、三十枚見ました。それに、ベルネームジュンのミセで先日セザンヌの展覧会がありました。二、三十枚ありました。実に感心します。里見さんは今セザンヌよりブラマンクをとってゐます。僕もブラマンクはスキです。このごろのブラマンクはもうあんなアバレタダケではありません。実におちついてゐて実にしっかりとした元気のある画です。リクツから行ってもセザンヌはコーズだけどセザンヌもよろしい。君に見セタイと思います。先日現代の人や近代の人の覧展会(展覧会)の一寸よいのを見ました。よい人には、ゴーガン、セザンヌ、ルノアール、ドーミエ、ルーソー、それに現代の、ブラマンク、ドラン、マチス等があります。ドラン、ブラマンク、ゴーガン、ルーソーにかんしんしました。君もひまの時手紙を下さい。サヨーナラ」

ベルネームジュンと佐伯が書いているのはベルネーム・ジューヌ(Jeune 若い、人名では、子の、弟の、意味)のことで、ここでセザンヌ展が開かれ、油彩五十点、水彩十三点が展示された。佐伯は里見と一緒に二度見ている。

「近、現代のフランス美術展」は、ブローニュの森の近く、外交官のルナール・ペルラン邸でのコレクション展で、里見と一緒に見ている。佐伯が列挙している画家には、なぜかゴッホとピカソが抜けているが、アバレタダケのフォービスト、ブラマンクは、佐伯が指摘するとおり、セザンヌの回顧展後、フォルム(造型性)志向へ入っていた。

パリへ着いた初期の佐伯は、セザンヌの影響を直接に感じさせる「パレットを持つ自画像」(1924年)を描いた。
(自画像 セザンヌ風の)

佐伯祐三は、大阪の淀川辺りの中津駅近くの、房崎山(ふささきざん)光徳寺の住職佐伯祐哲・タキの四男三女の次男として1898(明治31)年4月28日に生まれた。

父祐哲は、1920年(大正9年)祐三が美術学校在学中に亡くなり、祐三と2歳違いの兄、裕正が跡を継いだ。兄裕正は祐三が2度目のパリ滞在中に30歳の若さで亡くなるまで、祐三の生活と美術活動を支えた。

もう一人、佐伯祐三が画家を志し、パリへ来る動機を育む契機を作った人物に、父の兄慈雲の次男、浅見憲雄(のりお)がいる。憲雄は美術、音楽に理解が深く、早稲田大学に在学中も大阪に帰るたびに、まず光徳寺に直行し、裕正、祐三と兄弟のように育った。裕正が後に光徳寺内に楽浪(がくろう)園を建て、祐三が美術学校西洋画科を目指したのも、憲雄の影響と言われている。憲雄が持ち帰った文芸誌「白樺」によって、祐三は、セザンヌ、ミレー、ゴッホなどを知ったのだった。

しかし、その憲雄は大学卒業前に肺結核のために死去してしまう。さらに裕正、祐三の弟、祐明も20歳で結核のために死亡する。いまでこそ、結核は死病ではなくなった感があるけど、この時代、結核は最も死亡率の高い病だった。そして、佐伯祐三もパリへ着いた時にはすでに感染していたのだった。

1924年(大正13年)パリ15区のシテ・ファルギエール14にある里見勝蔵のアトリエに突然6人の日本人が現れた。6人の中に、襟元まで伸びた髪、色あせたプルシャンブルーの労働服。避難民そのものの格好をした青年がいた。里見は瞬間、関東大震災から避難してきたかと思ったという。それが佐伯祐三だった。佐伯は和服で着飾った米子夫人と二歳になる娘の弥智子を伴っていた。佐伯一家に、西村叡(みのる)とその夫人、それに大阪時代からの友人木下勝治郎が一緒だった。

マルセイユから佐伯は里見宛てに電報を打ったが間に合わなかったらしい。その前に、里見の近所に住む中山巍(たかし)宛てにも「駅まで迎えに来てください」と手紙を書いておいたのに、神戸から乗った日本郵船香取丸のマルセイユ着が遅れたため、中山とは会えずに6人は2台のタクシーに分乗、里見のアドレスを運転手に見せて、やっとたどり着いたのだった。

面白いのは、西村で、横浜育ち、里見、中山と美術学校の同級、佐伯のパリ行きに最初から同調したが、資金繰りが間に合わず延期、さらに関東大震災に遭い、結局、佐伯夫妻の1等の船賃千円を、三等の490円に格下げしてもらいやっと同行を果たした。佐伯が避難民のような格好をしていたのも三等船客だったためかもしれない。その晩、6人は、里見が急遽手配したホテル、パンテオン広場のホテル・グランゾンムに泊った。

  
佐伯にとって里見は東京美大の先輩。美校時代(1916、大正5年)里見が池袋に転居し、佐伯も付近に住んでいたので、よく遊びに行った。独立美術13・里見勝蔵特集に里見自身が書いた「自記40年」には「前田寛治、佐伯祐三、山田新一、など日夜僕の家に集まり、宿って、よく遊び、よく仕事した。佐伯はセロを弾き、前田は子供の肖像専門で、亜夫(鈴木)が「ブドーと女」を描いて、人々をうらやませた。中山巍(たかし)、宮坂勝、(この二人は里見と同級)西村叡(みのる)も池袋にいて、芸術の話は尽きなかった。」とある。

佐伯はチェロを弾いた。中学の頃からバイオリンに関心を持った。佐伯が大の音楽好きでパリのホテルでは娘の夜泣きに苦情が出たこともあったが蓄音器も聴けないことも理由となって郊外のクラマールの一戸建ちに引っ越し、庭の芝生に寝転がって、蓄音器の音楽に耳を傾け、バイオリンを習い始めた。

里見が渡欧する直前の1921年初春、佐伯は山田と一緒に里見の家を訪ねている。前田寛治、ヴァイオリニストの林龍作も渡欧計画を立てていた。ここに名前が出てくる人々は、こんなふうに、日本にいるころから美大の同級や先輩後輩の関係にあり、青春の情熱を分かち合う仲間だった。

里見勝蔵は日本における「フォーヴの旗手」となるが、佐伯祐三にとって運命的なブラマンクとの出会いを取り計らった。佐伯がパリに到着する前に、里見勝蔵はブラマンクに出会い師事するようになっていた。

「ゆうぞう」は「佐伯はいつも友達に僕の絵は『純粋か?』と訊いた、と言っていた。この「純粋」という言葉は佐伯芸術のキーワードなので、もう少し触れてみたい。

佐伯は、里見の紹介でヴラマンクに会い、「このアカデミック!」と一喝を食らったことが衝撃となり、佐伯の一大飛躍のきっかけとなった。里見の回想に詳しくあるので、もういちど、この事件を振り返ってみよう。

佐伯はパリに着いた最初の頃からヴラマンクに会いたいと言っていたが、「たとえ佐伯には有益であっても、ヴラマンクをわづらはせるのを恐れて、少し我慢してもらった」(以下、里見の「回想の二三」による)
「やがて佐伯は非常に巧みに、野蛮な、美しい表現をした時、その最も優秀だと私達が思った勇敢な50号の『裸女』をヴラマンクに見てもらおうじゃないかと、僕自身が佐伯をオーヴェールまで引き出した。」

実に驚くではないか、この強烈な佐伯の畫に対して、ヴラマンクは「アカデミック!」と一喝、里見とヴラマンク夫人が弁護しても、ますます激怒するばかりでアカデミックの攻撃を私達が彼の家を去るまで一時間半も続けた。

『半分は佐伯自身の責任だろうが、半分は日本の美術学校の罪だ」と私は言った。
「この人はパリに来て半年しかならないのだから」とヴラマンク夫人も佐伯を弁護する。
「そんな学校に居た者が悪い。パリに半年居ても、10年居ても、アカデミックに変わりはない、これを研究所(グランドショーミエール)で描いたんだろうと思った。この女には生命が無い」とヴラマンクは怒り続けた。

「佐伯は悲痛に沈黙し切った。私はなんとなぐさめていいかしらなかった。もしも私にこれを予測することが出来たなら、決してこの二人を會合させはしなかったのだ。

ヴラマンクは世界の野獣画家なのだ。
そして佐伯は全く無名の画学生に過ぎなかった。

ヴラマンクが絵を批判するに当たっては、画家の歴史、地位や環境にかかわらない。現存する絵それのみに厳格に批判するのだ。

佐伯の非常によく出来ていると私達が思ったこの絵が、この様な待遇を受けようとは夢にも想像できなかった。それでは日本人の誰の画を以ってしてもヴラマンクの賞賛を得ることは絶対に不可能だ。それほど日本人の画はナマクラだ。」(同上)

ヴラマンクの一喝を佐伯が食らったのは、クラマール時代だった。佐伯は、多くの芸術家に共通な「躁鬱質」といってよいだろう。ヴラマンク一喝直後は落ち込んで、子供のような赤いシャツに黒ズボン、パレットを左手に持ち、顔を黒く塗り潰した「立てる自画像」を描き、後にキャンバスを裏返して別の作品を描いた。

これ以後、佐伯は里見とオワーズ川周辺を歩き回って風景を描く。ポントワーズの北、オワーズ川の支流のソースロン川とヴィオンヌ川流域の村、ヴァルモンドワからネル・ラ・ヴァレ、ヴァラングジャール、エピエリュ、マリーヌといった村々が連なる、半円を描く地域を歩いた。佐伯一家と里見の他に木下も合流し、ネル・ラ・ヴァレにある芸術家の宿「HOTEL DES ARTISTES」に2か月滞在した。

この間の佐伯はヴラマンクの一喝を機に、目指すべきは何か? を模索し続けた修業過程にあり、里見は佐伯がこの時期70~80点描いたと証言しているが、大半は現存せず、確認された10点ほどの作品には「オワーズ河周辺風景」4点が、それまでの画風を一変させた作品として残っている。

ヴラマンク風と評することはできるが、それ以上に佐伯が踏み込んでいったのは、「虚飾」と佐伯が呼んだ他人事の表現を脱ぎ捨て、自己のいわゆる「純粋」そのものへ高まって行ったこと、と河北倫明氏は書いている。

「フォーヴなりヴラマンクなりから…(中略)…彼自身はもっと大切な、真実の画家として『純粋』はいかにあるべきか、その点についての激しい刺激と感化を受けた。」

里見の回想に戻ると「私達はしばしばヴラマンクの家を訪ねた。次から次と新しい仕事を持って批評を受けた。この時、ヴラマンクは佐伯の画については、物質感の表現については不完全を指摘したが、も早決してアカデミックだとは言わなかった――非常に色彩が生きて来た。君は立派な色彩画(家)だ……と連賞した。」(里見「回想の二三」)

「着々と勇敢に自己の素質を打ち出してきた佐伯の仕事を、さすがのヴラマンクも好感をもって迎えないわけにはいかなかったのだろう」(河北)

「佐伯には『純粋』の理念が素質に従って直覚されていたから、しだいに単なるヴラマンク風、単なるフォーヴ風を突き抜けて、おのずから自分で自分を確かめる作家に進んでいった。その上、ヴラマンクが示唆した「砂糖と塩を描き分けろ」「たたけばカチンと音のするような石を描け」といった物質感の表現は、それまでの佐伯の最大の弱点であっただけに、その後の勉強のよい手がかりとなった。これは写実と造形追求に弱い日本洋画全体の弱点でもあったので、佐伯の精進はその克服でもあった。従って、彼の『純粋』は、作家の主観面であると同時に、客観的な物質感受の純粋でもあらねばならなかったのである」と河北倫明氏は書いている。

1924(大正13)年も押し詰まると、里見、前田の帰国も迫り、ヴラマンク・ショックからようやく立ち直った佐伯は、そろそろパリ北西(オワーズ河周辺)の彷徨に見切りをつけ、再びパリ市内へ移住することを考える。

ちょうどその頃、京都出身の川端弥之助がモンパルナス駅南東のリュ・デユ・シャトー13番地、4階の岡田毅(みのる)が、近々南仏へ転居するという情報を佐伯にもたらした。

川端は、岡田の転居を確認し、改めて連絡する積りでいたのに、思い込んだら前後の見境なく行動してしまう佐伯は、岡田の転居1週間前には、クラマールを離れ、かつてのオテル・ソムラールに飛び込んだ。兄宛の11月29日付け手紙。

「1週間前ヨリ巴里にきました。田舎を引き上げて――只今ソムラールに居ますが二、三日の中に宿ヲカへます。さて今自分は米子が病気(熱)の為金が必要で二月はじめにいただく御金を一月のはじめに電報カワセデオクッテ頂きたいのです」

佐伯一家は無事、リュ・デユ・シャトー13番地の4階に居を定めることが出来、これより約1年1か月のパリ生活が始まる。

佐伯一家が住んだ、リュ・デユ・シャトー通りの若い番地は、1980年代に行われたモンパルナス駅周辺の再開発に呑みこまれ、現在はTGVの発着ホームと拡張されたパストゥール通りに変容してしまっている。

佐伯が引っ越してすぐにアトリエの窓から描いた「リュ・デユ・シャトー」が現存する。めずらしく Uzo Saeki とサインが入っている。ヴラマンク流の荒い筆触とプルシャンブルーは後退している。

1925(大正14)年1月、佐伯は、ベルネーム・ジューヌ画廊で開かれた「ゴッホ展」でゴッホの絵を50点、さらにフォーブール・サントノレの「バルバザン画廊で「ユトリロ」の絵63点を観る。

山田に宛てた手紙
「先日ウッチェロ(ユトリロ、フランス人はユ(ウとユの中間の音)トウリヨと発音する)の70枚のスバラシイ展覧会を見た。スッカリウッチェロをスキになってしまった。ブラマンクヨリスキな点もある位スキになった。ブラマンクがセザンヌのキモチをモツナラウッチェロはゴーグ(ゴッホ、フランス人は佐伯の書く通りゴーグと呼ぶ)だね。(中略)ドランやピカソヨリ自分はウッチェロの方がスキニなった。」

1月23日金曜日、3年8か月滞在した里見勝蔵は、リヨン駅から帰国の途に就き、佐伯は駅へ送りに行った。「帰国したら一緒にグループをつくろう」と約束した。

こうして佐伯のパリ一人歩きが始まる。地図を片手に連日冬の14区、15区の街角にイーゼルを立て、寒風に上着の襟を立て、里見がイタリア広場近くで買った赤いとっくり首のセーターを着ていた。
(画像)

リュ・デユ・シャトーがメーヌ通りに突き当たる手前に、3本の細道と交差する地点が、「モロ・ジャフェリ広場」で、佐伯はここにも三脚を立て、冬の景色にエスカルゴと呼ばれた簡易トイレ(ピソチエール=小便所)を入れた。ピソチエールは今はコンクリート製の有料トイレになったし、佐伯の絵の左端の空には50階建ての高層ビル、モンパルナスタワーが見える。

ピソチエールという言葉はモジリアニの晩年を描いた映画「モンパルナスの灯」に出てくる。冬の暖炉に焚く薪も買えないアトリエで、貧困と闘いながら絵を描く画家のところへ、友人の画商ズボロフスキーが絵を買ってくれる客が現れたと、飛び込んでくる。ホテル・リッツに滞在中のアメリカ人富豪の許へ急き立て、セザンヌの絵を買ったと自慢げに見せる富豪に数枚の絵を見せたところ、女性の眼が青く塗り潰されたのを見て、富豪は「いい考えがある。こんどウチの会社で香水を売り出すんだが、この絵を香水の瓶と箱に使おう。ポスターにして方々に張り出すんだ」と、俗物性を隠そうともせず自慢げに打ち明ける。「こいつには、オレの絵などわからない」と直感したモジリアニは、「僕の絵を広告に使うんですか?あちこちに張り出す……ピソチエール(小便所)にもね」と皮肉を言って立ち上がる。モジリアニは、せっかく買うと言ってくれている富豪のもとを立ち去ったのは、芸術家としての純粋性と気位のためだったと反省し、妊娠中でも食べる物もない愛人のユビテルヌを思い、デッサンを掻き集めて、ロトンドなどカフェーに売りに行くが一枚も売れない。眩暈と額に汗を流し、足取りもおぼつかなく夜霧の道を歩く画家の跡をつけるのは狡猾な画商モレル。結核に蝕まれ、アルコールで衰弱し、路上に倒れた画家を、警察病院に運び込み、死を見届けるのは、この画商だった。

余談が長くなったけれど、佐伯の「レストラン・オ・カドラン」も、この近くのこの時期の作品。(画像)

さて、いよいよ、佐伯のパリ滞在1期目の最盛期、傑作が次々と描かれた時期に入ります。

1期目は1926(大正15)年2月8日に、病身を気遣った母の意向でパリまで祐三を迎えに来た兄、裕正に連れ戻され、一旦帰国するまでの期間。翌1927(昭和2)年8月には、再びパリに向かったのが2期目と呼ばれています。

佐伯一家が住んだリュ・デユ・シャトー13番地のすぐ近くには「靴屋」、「絵の具屋」、「引越屋と書かれた古い壁の家」などがあった。

パリのモンパルナス駅の南側、すなわち、カルチエ・ラタンやルーヴルやシャンゼリゼなどのパリの中心から見て、駅の裏側の地区一帯は、立ち並ぶ建物の高さも低く、都会の中にあって田舎風の雰囲気を湛えた庶民的な界隈だった。再開発で駅周辺はすっかり変わってしまったが、今でも、少しはその面影が残っている一郭はある。モンマルトルの丘の周辺もブドウ畑や風車が残っていたりして、ゴッホなど画家はまず、モンマルトルに集まり、ついでモンパルナスに集中した。

佐伯は好んで庶民的な、生活の匂いの感じられる風景を描き始める。レストランの正面を描いた「デユメニル・ビエール」。ビールの商品名が軒下に書かれたレストラン↓

画像

そして、この時期の白眉、「コルドヌリ」5部作が完成する。
CORDONNERIE (靴の修理屋)と上部に書かれた古い壁を画面いっぱいに描いている。

この絵が描かれたのは1925年のことで、佐伯は自らの「純粋」を推し進めた結果、この画面に辿り着いた。後で詳述するけど、これを描いたというだけで佐伯は、日本のみならず世界の絵画史に不朽の名を留めることになったといっても言い過ぎではないと、僕は思う。

「コルドヌリ」は5枚描かれ、その中の自信作が、9月の第18回サロン・ドートンヌに入選。初日に、ドイツの絵の具会社に売却された。売却された絵はその後、行方不明となっているので、いつかは出てくるのか? 小説を書くうえでとても興味深い。

佐伯は、パリの古い石の壁を描くにあたって、職人が使う刷毛を用い、事前にアトリエで新聞紙を使い練習したという。このことも、第二次大戦後にリリカル・アプストラクトの旗手として一躍崇められたアルトウングに先行した試みと言える。

佐伯は年代を経た古い壁の質感を追求した。とともに深い味わいのある色彩を重視し、面の構成に執着しはじめ、遠近感やパースペクテイヴなど、従来の絵画が捉われていた3次元を感じさせるための陰影とか立体感とかを無視するようになる。

佐伯がひとり「純粋」を目指して孤独な精進を重ねた結果、こういう絵に1925年という年にすでに到達したことが、感動を呼ぶ。

なぜなら、絵画は第2次大戦後、抽象絵画が前衛となり、アメリカを中心に花開くのだが、佐伯のこの絵には、すでに、マーク・ロスコのアンフォルメル、ジャクソン・ポロックのアクションペインテイング、そしてヨーロッパでは、フォートリエ、アルトウング、先日亡くなった中国系のザオ・ウーキーなど「絵画は平面であるべきだ」という潮流の先駆けと見られるからである。

佐伯が、パリ滞在中に、モンドリアンの理論に触れた形跡は、少なくとも今まで世に出ている佐伯に関しての本には見当たらない。セザンヌ、ゴッホ、ユトリロの絵を見た。セザンヌの理知的な画面構成は、立体派(キュービスム)へ、そしてモンドリアンによって「純粋絵画」すなわち抽象絵画へと推し進められる。

モンドリアンは1912~1914年第一次大戦勃発までパリに住み、キュビスムの理論に従って、事物の平面的、幾何学的な形態への還元に取り組む。その過程で抽象への志向を強め、「キュビスムの先」を目指すようになる。

「キュビスムが展開する抽象化は、その究極の目標である、純粋なリアリテイの表現へと向かっていないと思うようになった」とモンドリアンは書き、そのリアリテイの表現が「純粋造形」によってのみ確立され得ると感じ、より一層の表現の探究に向かった。

1914年オランダに戻った後、1917年、ドースブルフと共に芸術雑誌「デ・ステイル」を創刊。ここで「新造形主義」と呼ばれる理論を展開。

「宇宙の調和を表現するためには完全に抽象的な芸術が必要である」として、一切の事物の形態から離れた抽象絵画への移行を追求、1921年に代表作「コンポジション」の作風が完成された。

モンドリアンは「純粋な、リアリテイと調和を絵画において実現するためには、絵画は平面でなくてはならない」と書いている。

3次元を追求したいのなら彫刻か建築を目指せばよい。絵画は2次元の平面に固執するべきだ、と、考えてみれば、もっともな極あたりまえのことのように思える。「従来の絵画のような空間や奥行きの効果は除かれなければならない」とこの前衛画家は考えた。1938年にロンドンへ行き、1940年にモンドリアンがニューヨークへ移住したこともあって、戦後は絵画の中心はパリからニューヨークへ移った。

「純粋絵画」を定義するとこういうことになる。

「絵を平面としてとらえ、額縁を取り除き、何かの描写ではない、ひとつのそれ自体として完成された表現としての絵」

抽象絵画のもう一人の創始者カンデインスキーは、「絵は外界を写すものではなく内面の表現であるべきだ」として色彩と形、線を使って音楽に近い絵を描いた。モネの積藁の絵を見て色彩表現にインスパイヤされたとも語っている。1910年にミュンヘンで最初の抽象画を描き、1918年にモスクワに戻る。面白いのは、当時のソ連では、前衛芸術はレーニンによって「革命的」と認められ、カンデインスキーは政治委員を務めた。後のフルシチョフが「抽象絵画はブタのシッポ」と揶揄したのはスターリンの芸術音痴を引き継いだせいだという。

  

佐伯祐三は、里見が書いたように、遊ぶ時は遊んだが、仕事となると朝早くから、日が暮れてもまだ描いていたという。里見が佐伯一家とネル・ラ・ヴァレの「芸術家の宿」に泊まった頃は、里見が朝起きると佐伯はもう一仕事終え、外で描く支度を整えて待っていたという。

佐伯は食べる物に好き嫌いはなかったが、妻の米子は肉が食べられず、野菜にも好き嫌いが激しく外国での食事に苦労したという。日本から知人が来ると日本食を作ってもてなすのは米子だった。米子も絵を描き、佐伯の「コルドヌリ」が第18回
サロン・ドートンヌに入選した時は、米子の作品も入選し、その知らせが祐三よりも先に届いた。

母親のタカが祐三の結核を気遣い、兄の祐正に、連れ帰るよう頼んだ。祐正は1925(大正14)年、セツルメントの視察を兼ねてアメリカを回る前、7月中旬にフランスへ着いた。祐三と米子は弥智子を連れてマルセイユまで迎えに行き、途中アルルではゴッホが描いた「跳ね橋」を訪ねている。米子が応募し入選した作品は、この「アルルの跳ね橋」を描いたもの。

兄は白山丸の船中で作家の芹沢光治良と親しくなった。芹沢は1929年までパリに滞在し、祐三の作品を愛蔵した。祐三は帰国する3・4日前に芹沢を訪ね、梱包して送った後に描いた作品を預けた。芹沢は後に「佐伯祐三の思い出」(文芸春秋1955年1月号)を書いた。祐三は芹沢に「日本へ留学するんです。すぐパリへ戻ってきます。……古い日本画の山水と宗教画を見ることで、自分の絵を完成することができるかも知れない……」と語ったという。

帰国した祐三は下落合のアトリエに住み、里見、前田、小島、木下らと「1930年協会」を結成。第一回展を京橋で開き、9月には二科会に19点を出品して二科賞を受賞する。翌1927(昭和2)年には、初めての個展を新宿の紀伊国屋書店で開いた。

日本滞在中は「下落合風景」「滞船」などを描くが、垂直線の少ない日本の風景は、パリに馴染んだ佐伯の眼には刺激となり得ず、8月には、今度はシベリア鉄道で欧州に向かった。

2回目のパリの落ち着き先は、モンパルナス大通り(Boulevard Montparnasse 162 )の中庭の奥に造られた貸アトリエだった。表通りに面した建物には、ロマンロランが「ジャンクリストフ」を書いた部屋があったという。

この頃のパリには、日本人画家が300人近く住んでいたと言われる。佐伯のほぼ絶筆に近い「カンパーニュ・プルミエ27」の扉の絵がある。この通りは200mほどしかない短い道だが、両側には、9番に前田寛治、10番に藤島武二、12番に有島生馬、17番bis に高村光太郎、23番に藤田嗣治が住んだことのある日本人横丁だった。佐伯のアトリエもここからわずか5分の所にあった。

佐伯は1期目の後半と、2期目の前半に傑作を沢山描いたといわれるが、パリに戻った佐伯は、前にも増して、一日中街頭に立って制作を続けた。里見宛ての手紙には「5か月目には107枚の絵を描き、その1か月後には145枚目の仕事をしている」と書いている。1日1枚以上描いていたことになる。

帰国する前、芹沢に語ったように、2期目の作品には、黒の線が顕わになって出てくる。お寺に生まれた祐三は幼少期に父から毛筆の持ち方、書道の手習いをさせられていた。「日本画の山水と宗教画を見ることで、自分の絵を完成することができるかも知れない」芹沢に語った言葉を実行に移し始めた。パリやパリ郊外の建物や風景を対象に、「純粋」をどこまでも推し進め、日本人として天性に身につけた独自の画法で描き続けた。

すでに「コルドヌリ」や「壁」に現れた「Demenagement 引越屋」などの文字が、こんどは画面全体を覆うようになる。

(ポスター)

レストランの椅子やテーブルの線も毛筆の線に見える。人物は、どこか昆虫のような剽軽さが見える。
佐伯の伝記を書いた坂本勝氏が、「天真狂怪」、中国唐代の書家、「懐素(かいそ)」の「狂草体」と評された、独特のスタイルが現れる。

3月、雨降りの日、米子が止めるのも聴かずに外へ描きに出た佐伯は、ずぶ濡れになり、カンバスの真っ白なまま戻って来た。翌日、吐血。それから55日間、病床に伏せった。

この間にも、「郵便配達夫」↓

ついで「ロシアの少女」↓ を描いた。

4月末、動かさぬ方が良いと椎名は反対したが、やむを得ぬ事情で佐伯一家はリュ・ド・ヴァンヴへ引っ越した。米子はじめ、友人の、椎名其二(ファーブル昆虫記の訳者と知られ、佐伯のフランス語の先生だった。第二次大戦中もフランス人の奥さんと本の装丁をしながらパリに残った)、荻須高徳(たかのり)、林龍作(ヴァイオリニスト)、山口長男(たけお)、大橋了介、木下勝治が交代で看病を続けた。6月4日には親友の山田新一がパリに見舞いに到着した。内科の臨床医佐藤淳一、精神科医の坂本三郎も協力した。

6月20日未明、佐伯はベッドを抜け出し、山口の靴を履いて、行方不明になる。手分けして、そこらじゅうを探すも見つからず、荻須と椎名はパリ警察に届けた。

佐伯は、顔見知りのホテルのマダムに電車賃5フランを借り、昔住んだクラマールの森に向かっていた。米子と林がクラマールに近いブローニュ警察から祐三保護の知らせを受けたのは夜の10時過ぎだった。クラマールの森の入り口で佐伯が倒れているのを警官が見つけた。首には黒い血の滲んだ跡があった。
6月23日、椎名が調べ、佐伯は、パリ東郊外のヌイイ・シュル・マルヌの県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院した。

8月15日、米子のもとへ病院から「危篤」の知らせが届き、17日には遺体となってオテル・デ・グランゾムに運び込まれた。祐三の遺体はペールラシェーズ墓地に仮埋葬された。

6歳になっていた弥智子にも祐三の菌が感染しており、2週間後の8月30日、父の後を追った。

死期を悟っていた祐三は、まだ正気だった頃、米子に「僕が目指したことは、ほぼ達成できた。僕が死んだあとは、絵のことを頼む」と言っていたという。

米子は二人の遺骨を持って10月31日、帰国した。

 

 

 

 


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