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フォントノワの戦い

フランク帝国のシャルルマーニュ(カール)大帝の息子のルートヴィヒ(1世)は生存中に3人の息子、ロタール、ピピン、ルートヴィヒ2世にそれぞれ遺産相続の領地を決めていました。そこまでは平穏無事にシャルルマーニュが理想としていた平和が大帝亡きあとも続くように見えました。しかし、ルートヴィヒ(1世)が、ジュデイスという美人で野心家の後妻を娶ったところから、帝国は分割され、今日のヨーロッパの国々が誕生することになりました。ジュデイスは823年シャルルという男児を産み、先妻の3人の息子との間に相続争いが生じます。ロタールはピピンと組み、ルートヴィヒ2世はシャルルと組んで、戦が始まります。

西暦841年6月25日、周囲360°が見渡せるフォントノワという小高い丘を中心に、天下分け目の戦いが行われます。シャルルの名付け親で叙事詩人のニタールが書き残した叙事詩が唯一の資料ですが客観性に欠けるため、そこに書かれている双方15万ずつの兵という数は誇張だろうが、少なくとも双方合わせて1万2千の兵がこの丘で戦ったと推定されています。結果は、ロタールとピピンの軍が、ルートヴィヒ2世とシャルルの軍に敗れます。終戦条約が843年、ヴェルダンで結ばれ、フランク帝国は分割されたのでした。ロタールはブルゴーニュ、ロレーヌ、イタリーを、ルートヴィヒ2世はドイツを、そしてシャルルがフランスを統治することになります。シャルルは一番年少なのにハゲていたのか、ハゲ頭の王様(シャルル禿頭王)と呼ばれます。こうしてほぼ今のヨーロッパの国々が生まれたのでした。

ルペルチエ

ルイ16世の処刑は国民議会の投票により過半数を得て議決されました。採決の当日、出席議員数720名、半数は360。結果、国王処刑に賛成票を投じたのは361名でした。たったの1票差で、ルイ16世は死刑確定。上告不可、執行猶予無しという厳しさでした。

オルレアン公が国王処刑に賛成なのは周知のことでしたから、元国王の護衛だったパリスという男がオルレアン公暗殺を決意してパレ・ロワイヤルを探し回ります。しかし見つからず偶然そこのレストランに居たルペルチエに目をつけます。パリスが「国王の件につき、お前はどんな意見だったか?」と訊くと、ルペルチエは「私は良心に従い、処刑に票を投じた。」と答えます。「ならば、これが褒美だ。」暗殺者は剣を深々とルペルチエの脇腹に差し込んだのでした。

死に臨んでルペルチエが残した言葉が記録されています。「私は祖国のために血を流し満足して死ぬ。私の流す血が、自由と平等を強固にし、人民の敵を認めるのに役立つよう望む。」享年33歳でした。

ルペルチエはマラーと並んでフランス共和国の殉教者とみなされ、パリとサンファルジョーで壮大な葬儀がとり行われました。ルペルチエの亡骸はシャトーの礼拝堂に葬られました。父の悲惨な最期を見たルペルチエの娘は王党派となり、その子孫はダヴィッドが描いたルペルチエの遺体の絵を買い取り城の壁に埋め込んだといわれています。

ヴィオレ・ル・デユック

この建築家の著した中世建築辞典を青春時代愛読書として枕頭に置いていた詩人が晩年「若きパルク」の長編抒情詩やアレクサンドランで「海辺の墓地」を書いたヴァレリーです。
昔、グランパレで開かれたヴィオレ・ル・デユック展を見に行きましたが、展示されていたデッサンは寸分の狂いもない正確無比でかつ、気品を湛え、芸術品として鑑賞に値するものばかりでした。若い頃、この建築家はフランスに残るロマネスクから中世ゴシック建築物の柱や梁や窓などの構造物や彫刻をデッサンして歩き、10巻ほどの辞典に編纂しました。

ロマン・ロラン

「ジャン・クリストフ」「魅せられたる魂」など、長編を読まれて感動した記憶をお持ちの方も多いことでしょう。ロマン・ロランは小説だけでなく、ベートーベンやミケランジェロについての評伝を残しています。専門は音楽史で、エコール・ノルマル師範学校やソルボンヌで教鞭をとり、第一次大戦中は戦争に反対してスイスに亡命し、「戦擾を超えて」など反戦パンフレットなどを出す傍ら「ジャン・クリストフ」を書き続け、1916年、ノーベル文学賞を授けられました。
ヘルマンヘッセやインドのガンジーとも交流があり、東洋思想に関心を持っていました。第二次大戦後は、「ジャン・クリストフ」がドイツ人を主人公とする小説ということもあって、疎んじられていましたが、ミッテランの時代にフランスがドイツと手を結び、ヨーロッパ連合を実現させたので、国境を越えた芸術家の生きざまを描いたこの長編小説はまた息を吹き返し、東洋思想に関心を持つ西洋人も増え、近代の民族国家主義を超越した平和思想家としてのロマン・ロランが若い人々からも見直されています。
ロマン・ロランが生まれたのは、ヴェズレイに程近い、ヨンヌ県とニエーヴル県の境にあるクラムシイという町です。この街をヨンヌ川が流れています。ロランの生家はこの川のほとりにあります。家の庭が川に接していて、家の窓からは常に川面が眺められたでしょう。ジャン・クリストフは大河小説と言われ、一人の芸術家の生誕から死まで長い一生を描いた世界文学全集でも3巻にもなる大長編ですが、書き出しはライン川の畔の家の屋根裏部屋で、揺りかごの中で身動きしている生まれたての赤ん坊の描写です。ロマン・ロランには生家の前を流れるヨンヌ川のイメージが重なっていたことでしょう。この生家は、現在クラムシイの中心地にあるロマン・ロラン記念館に隣接して残っています。

限りない安らぎへ向けて

ロマンロランが活躍した第一次と第二次世界大戦の間、1930年代にアメリカとフランスの政治家、ケロッグとブリアンが主導し、世界の主要21ケ国が集まって署名した、「パリ不戦条約」と呼ばれる、平和協定があります。
この条約に日本も署名し、これを根拠に日本が満州事変を起こした時に、国際条約違反を糾弾され、国際連盟から脱退し、ほぼ全世界の国々を敵に回した無謀な戦争へ突入して行ったのでした。その結果、原爆を落され東京大空襲の地獄を味わい、無条件降伏の敗戦を迎え、占領軍の手によって平和憲法が制定されました。
「パリ不戦条約」には「国際紛争を解決する手段として、武力に訴えることを放棄する」という1項があります。日本国憲法第9条とそっくりそのままの文言がこの条約に記されています。

 


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