町の紹介と

シャトーの歴史

パヴェSF
シャトーの脇を流れ町を横切るロワン川
城の前の広場で開かれる朝市
城下入口の時計台
教会の尖塔と司祭館
下はメンヒルの礎石
ジャンヌダルク記念の石版
グランド・マドモワゼルの肖像
中庭のファサード
VueloindeSF BriqueEglise Chateauvudejardin
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chateauete パリから南へ180km。ロワール河と北ブルゴーニュに挟まれて、ロワン川の浅い谷間に、牧場と雑木林に囲まれ、レンガ造りの地味なシャトーが佇んでいます。サン・ファルジョーの城です。
Prairie 人口が2千人にも満たない城下町は、7月14日の革命記念日から8月の終りにかけてシャトーで夏のフェステイバルが催される時期だけ少し賑やかになります。あとは、至って静かな小さな田舎町ですが、世界遺産(シャンボール城とヴェズレーの丘のロマネスク聖堂)やワインの産地(ロワール河流域のサンセール、ブルゴーニュ地方のシャブリ)に近く、寛ぎの滞在にも好し、少し脚を伸ばして熟年の観光を楽しむにも好し、どちらにも格好の位置にあります。
Loing ブルゴーニュ地方の四つの県のうち、ヨンヌ県は北西部に位置しています。セーヌの支流ヨンヌ川が流れ、昔は山から伐り下ろした木材を筏に組んでパリまで流していました。サンファルジョーはこのヨンヌ県の南西端にあります。この地域一帯はピュイゼと呼ばれ、セーヌのもうひとつの支流、ロワン川の水源地で、いたるところに雑木林が茂り、イノシシやシュヴルイユ(日本名でノロ)と呼ばれる小鹿が住み、ソローニュやアルデンヌと並んでフランス屈指の狩猟場となっています。ヨンヌ県とニエーヴル県にまたがるピュイゼはオルレアン、ブルゴーニュ、シャンパーニュ、イル・ド・フランスの四大勢力が境を接し、昔からたびたび戦場となった土地でもあります。また粘土が出るため陶芸が盛んで、近隣の村には平窯や芸術家のアトリエがたくさん散在します。
Placematin

人口は二千人に満たなくても、村には教会、村役場、消防署、郵便局、警察、税務署、養老院、それにドクターが5人、薬局1軒、美容院2軒、不動産屋3軒、スーパー2軒、カフェ2軒、レストラン6軒、パン屋2軒があり、生活必需品はなんでも手に入ります。無いのは映画館と犬猫病院くらい。

1970年に人口が3千人を超え、その後過疎化が進みましたが、2007年には既存のスーパーが拡張工事をし、村はずれに新らしいスーパーがもう1軒できました。フランス全土で100万戸の住宅不足がいわれている現在、大都市郊外と田舎に、どんどん住宅が建つでしょう。ベルギー、オランダ、英国から不動産を買いに来る客が増えています。夏には、村でフランス語以外の言葉が聞こえます。

 

Beffroi

シャトーの歴史

シャトーの歴史が遡れるのは、990年までで、ユーグ・カペーの腹違いの弟、エリベールが狩猟用の館を現在の地に建てたのが始まりとされています。ユーグ・カペーは大カペーの息子でフランス・カペー朝の初代の王様です。父親の大カペーは四人の息子を作り、ユーグはフランス国王に、オトン、ウード・アンリのふたりはブルゴーニュ公国の公爵になります。大カペーの側室の息子がエリベールで、オークセールの46代目の司教となり、サンファルジョーとその周辺のピュイゼの領主でした。

フランク帝国のシャルルマーニュ大帝の四人の孫の遺産相続争いは、841年、サンファルジョーから15キロ北のフォントノワの戦いとなって現れます。2年後のヴェルダン条約でドイツ、フランス、イタリーとロレーヌ、ブルゴーニュというヨーロッパの国々が生まれます。この地方の人々は現代ヨーロッパを産んだのはこのフォントノワの戦いだとしています。シャルルマーニュ(カール)大帝の築いたカロリンガ朝は975年ユーグ・カペーを初代の国王とするカペー朝にとって代わられます。サンファルジョーに最初の城を築いたエリベールはフランスの王家、カペー朝の血筋だったのです。

Eglisemaison

 

 

Menhil

11世紀から13世紀にかけての十字軍の遠征にここの城主も加わり、1146年の第二回遠征は、ここから80kmほどのヴェズレイに騎士たちが集合し出発したのでした。この時代にサンファルジョーの城は狩猟用の館から堅固な城砦に姿を変えました。1247年、聖王ルイの第7回遠征に城主のジャンが加わりますが、跡継ぎがひとり娘のジャンヌしかおらず、婿養子を迎えよと言い残して出発します。婿養子はチボー家のバール侯爵でした。1250年、ジャンヌとチボー2世の婚姻がとり行われます。この時、昔からあったメンヒルの上に建てたといわれる、サンファルジョーの最初の教会が出来ました。バール侯爵はロレーヌ地方の領主ですが、やがて侯爵から公爵へ格上げになり、孫のエドアールと聖王ルイの孫娘ブルゴーニュのマリーとの婚姻はバール家の封建社会での地位的上昇を確たるものにしました。エドアールの息子のアンリ4世は サンファルジョー侯爵 の称号を得ています。

しかし英国王アンリ2世とアキテーヌのアリエノールとの婚姻に端を発し、フランス南西部の英国が支配していたギュイエンヌ地方の統治権をめぐる英国との争いは、百年戦争(1337年から1453年)に発展し、この間、ロワール河流域のオルレアンはじめ多数の町が英国の手に落ちました。 サンファルジョーもそのうちのひとつでした。

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ジャンヌダルク

ジャンヌダルクは、1429年に、シャルル7世を導き王位に就かせよという神のお告げを実行に移すためにシノンへ向う途中と、帰途王子と共に、この町を通っています。ブルゴーニュ兵と英国兵の監視の厳しい橋を避け、サンファルジョーの10km北のメジーユという美しい村の浅瀬を渡って、占領地を抜け出たのであろうと言われています。無事シノンに着きますが、田舎娘をからかってやれと堕落していた宮廷貴族たちはシャルル7世を変装させ家臣に紛れ込ませます。ジャンヌダルクは悪戯に惑わされず王子を見分け、王子とふたりきりになって神のお告げを伝えます。オルレアン攻めの先頭に立ち負傷にもめげず攻撃を繰り返し、ついにオルレアンをフランスの手に取り戻します。オルレアン開城の後、英国が占領していたロワール沿いの町はつぎつぎとフランスに降伏し、サンファルジョーもフランスの勢力範囲に復しました。

町の教会の脇に掲げられた500年祭記念の石板には「ジャンヌダルク 1429年6月29日、戴冠式への途次、サンファルジョーの降服を享く」とあります。

 

ジャッククール

ルネッサンス期のフランスの大富豪ジャック・クールがサンファルジョーの城を買い取りますが、この地中海貿易で富を築いた豪商があまりに豊かになったために権力の妬みを買い、ブルジュに豪邸を築いた直後、裁判で有罪を言い渡され、監獄へ入れられてしまいます。なんとその有罪判決を下した裁判官が、この城を横取りしてしまったのでした。

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グランド・マドモワゼル

17世紀半ば、フランス絶対王制を築いたルイ14世の治世、1652年に、フロンドの乱が起こります。北方戦線で偉大な戦果を納めたコンデ公は、中央政権に反抗し乱を起こした地方貴族たちに加担してゆきます。サンファルジョーョーの北20kmのところにブレノーという村がありますが、ここでコンデ公率いる反乱軍とチュレンヌ率いる王党軍とが交戦し、コンデ公はチュレンヌの策略にひっかかり敗北します。

アンリ4世の3番目の息子で、ルイ13世の弟のガストン・ドルレアンとモンパンシエ夫人の間には、アンヌ・マリ・ルイズ・ドルレアンという娘がいました。ルイ14世の従妹にあたりますが、こともあろうに反乱軍のコンデ公に加担し、バスチーユでチュレンヌの軍に大砲をぶっ放したのでした。大胆不敵な娘の行動に、人々はグランド・マド゙モワゼルの称号を贈ります。むろんルイ14世は放置しておけず、「田舎の城へ蟄居せよ!」と命じます。こうして、グランド・マド゙モワゼルは、このサンファルジョーの城へ島流しの生活を送りに来たのでした。

courfacad しかし、当時のヨーロッパでも最高に豪華なサロンを開いていたグランド・ドモワゼルとしては、田舎にあっても豪華な生活はやめられず、この城に過ごした4年の間も、当時の一流文化人を招き、サロンの花を咲かせたのでした。作曲家のリュリー、ロシュフーコー、セヴィニエ婦人、ラファイエット婦人など、音楽や文学史に名を残す人々が、亡命中の彼女と交流を絶やさず、中でも、ヴェルサイユ宮殿に携わった建築家ル・ヴォーは、サンファルジョーの城に改築工事を施します。今日も残っている、シャトーの中庭のファサード(正面)はフランスの古典建築の最も美しい代表例といわれています。
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1752年6月24日、城の真下にあるパン屋から出火します。住民はサン・ジャンの祭日で隣村の市へ出かけてしまって町はほとんどからっぽ。そのため消火できず、火は民家を焼き尽くし、城に燃え移ります。夕方までに、塔の屋根が焼け落ち、グランド・マドモワゼルが贅を尽した城の内部は灰燼に帰したのでした。

惜しいことに、1856年にもう一度、こんどは城の内部から火災が起き、この二度の大火のために美しかった城の内部は見る影もなくなってしまいました。現在、城の内部の修復された部屋はごく僅かしかなく、屋根を支える数千本の樫の木組みの他には見るべきものはあまりありません。しかし、広大な庭園の池の端から見る城の姿はこの上なく美しいものです。

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ルペルチエ

大革命の時代の城主は、17歳の若さで裁判官に任命され、21歳でパリ国民議会の代議員に選ばれた司法官ルペルチエでした。彼は貴族代表で国民議会に選ばれましたが自分と同じ若く正義感にあふれた第三身分の司法官たちに共感をよせます。すでにこの当時、死刑廃止を主張するなどユマニストでしたが、貴族出身ということもあり最初は穏健派でした。しかし1789年のパリの民衆蜂起を境に、地方分権の連邦制を主張するジロンド党と袂を分かち、パリ中央集権の一国共和制を目指す山岳党の意見に次第に傾いてゆきます。結局、ルペルチエは国王の処刑に票を投じ、この一票差によってルイ16世は断頭台に送られるわけですが、その国王処刑の数時間前にルペルチエは暗殺されてしまいます。

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フランス式庭園と英国式庭園

グランド・マドモワゼルは城の脇の森にフランス式庭園を作ろうと夥しい労働力を使って伐採し土を掘らせますが、幾何学模様の造園の途中で、「蟄居」が解けて都へ帰ってしまいます。その後、1808年に至って、ド・モントフォンテンヌが城主となり、こんどは自然を活かした英国式庭園を作り今日に至っています。

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Musee de son

夏のフェステイバル

毎年7月14日から8月25日の間の金曜日と土曜日の夜10時から、シャトーにまつわる歴史をテーマに一大スペクタクルが城の庭で繰り広げられます。600人もの出演者の中には村人のヴォランテイアも大勢加わっています。昔の衣装を着た住民や、甲冑姿の騎士が馬に乗って登場しタイムカプセルに乗った過去への旅が味わえます。(入場料:大人15€)

フランス・アカデミー(翰林院)会員で作家のジャン・ド・ルムソン氏は、このシャトーで生まれ、オーナーでもあり夏のスペクタクルの台本を書いたりもしましたが、諸般の事情で(膨大な維持費に耐えられなくなったのでしょうか?)ついに手離し、1979年からミシェル・ギュイヨ氏の所有となっています。ギュイヨ氏は他にも、ソローニュのフェルテ・サントーヴァンとブルゴーニュのアンシイ・フランスのシャトーの城主だそうです。
村の名士としては他に、歌手のフランシス・ガルのお父さんがいます。

町には時計台の鐘と教会の鐘と二種類の鐘の音が響きます。時計台の鐘は毎時澄んだ音で時を告げ、ときおり教会の鐘が朗々と響きわたります。

音のミューゼアム

昔ビクターレコードというのがあり、犬が蓄音器に耳を傾けていました。あの蓄音器が1000台以上 も展示してあるちょっと変わったミュージアムです

 

Restaurant

レストラン

お城の前のレストラン、グランドモワゼル(写真左)が有名ですが、
他にもピザの店、クレープの店、モロッコ料理(クスクス、タジーヌ)
など全部で6軒のレストランがあります。
右上の写真はこの町の名物のお菓子「サンファルジョーの敷石(パヴェ)」

Boulanger

町のパン屋さん

村で一番おいしいパン屋さん。なかでも田舎パンは色は黒いけど味があってとてもうまい。朝、昼、晩と焼いていつも全部売り切れ。予約して取っておいて貰うお得意さんが何人もいます。

以下は昔救急車の運転手だった隣人から聞いた話です。次回更新までの確認事項です。
「昔は、パリと結ぶ鉄道が走っていた。それにこの村に電燈が灯ったのはパリよりも早かったんだよ。」

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